考察と主観

頭に浮かぶあれやこれやをなんとなしに書き付ける

人任せの幸せ

有る大学生達が作った舞台で擬人化した日本国が友達という設定を理解すのも大変だったお芝居が有った。社会人になる前の彼らですら感じている我が国に対する疑問の中に「何でも日本国にやらせて」と言う台詞が心に刺さった。

大なり小なり問題が起こると、「国は(学校は・警察は・職員は)何をやっているんだ」とか聞こえる。確かに、そこが出来る事も有ったとは思う。だけど、国って結局人の集り。業務が終わって家に帰れば国民の一人。テレビで「国民一人一人が...」とか言われても他人事に聞こえるのも分からないでもないが、事実、一人一人の行動を取り締まれる訳が無い。1日8時間労働とは24時間の3分の1。最低1週間に1日は休暇が必要として1人辺り4人体制で監視...で間に合う?だとしたら最低でも国民の5分の4は監視員として必要か?報告を受けて可、不可や処理方法や傾向と対策を検討する人がどのくらい必要になるか検討もつかない。残りの5分の1で間に合わない様な?休暇中の彼らを監視するのは誰だ?
やや、国民全員が公務員になっても足りなくなった。

生産がままならない。そもそもにそんなに監視されるのはお互い嫌だろう。ならば、それぞれが本当に自分を律して社会生活を営んで行くべき。「自分はちゃんとやってる。隣を監視してよ」隣の人が自分なら?隣の人が監視させたい人は自分。自分が特別だと思う方が危うい。

私はちゃんと動く小型の物が好き。安全上の規制でもう旧型ミニクーパーの様な車は新車で造れなくなった時は悲しかった。バイクのモンキーも変わってしまった。事件はある程度の規制で防げるかも知れないけれど、事故はそこまで効果が上がるだろか?そもそも、思考に規制はかからない、地下に潜るだけ。自分や隣の人が判断して起こした行動の結果の積み重ね。傷付けるのも、守るのも、立場が入れ換われば自分。

何歩も譲って、全部防ぐほどの規制が出来たとして、その世界で生きる自分を想像すると窮屈で堪らない。譲りすぎて崖っぷちだ。いままでは抵触しないで済んできたが、何やら譲れないものに規制がかかって犯罪者に転落しそうだ。少数派の思考だからだろうか?規制の合間に生きる幸せ?隣も自分と言っておきながら、「他人に幸せを決められてたまるか」と言う気分になった。私は自由が好きだ。