考察と主観

頭に浮かぶあれやこれやをなんとなしに書き付ける

情けは人の為ならず

規制が、発動して地下に潜った不穏な思考はいつか爆発するかも知れない。最終的にそれを抑えられるのは不穏な思考を持った本人だけ。頑張って頂きたい。しかし、エールを送る事はできるはず。

自分がいじけて幼稚な反社会的な行動を思い付いても行動に起こさなかった時を思い返すと、壊したくない世界が壊れる可能性を感じたからた。壊したくない世界には母の愛や、友人・知人からの信頼や思いやりが含まれていた。

愛は世界を救う...某テレビみたい。

スケールが大き過ぎてピンと来ない。少なくても友好的に接してくれる人は傷つけたく無いだろう。相手発信スタートばかりではなくて自分から発信しても良いのではないだろうか。傷つけたくない人のグループに入れるかも。

今は愛が枯れている人が多いからむしり取られる可能性もある。依存してくる厄介な人もいるかも。思いやり平均値が底上げされればそういった人も減ると期待もしている。その人が不穏な思考を爆発させる可能性が大きいけど、手に終えないならその人とは距離を置く方が得策なのは認める。自分が枯れているときも難しい。日々夫から満たしてもらった情を職場でむしり取られているときは不満が大きかったので転職した。距離の置き方が半端ない。

ところで、日本の愛情は絶対値が減ってしまったのだろうか、それともどこかに愛情が余ってる人はいるのだろうか。愛情を生み出すのにエネルギーを使うのが惜しい世の中になってしまったのだろうか。と、また思考の種。

 親切にして損をしたと感じる…先方にも色々な問題があると思う。
お礼を言いそびれた又は言いなれていないのでとっさに浮かばなかった、親切にされなれていない人。こだわりが有った等、自分でどうにかしたかった人。気づいていない鈍感な人。親切にされるのが当たり前だと思っている人。
 さて、親切にしてもらった時はちゃんとお礼の心が表せているだろうか。かくいう私も親切にされなれておらずにとっさに浮かばない事が多かった。親切にして損したと思わせてしまう方が損。

この記事を書き始めてから一層、表情を笑顔寄りに明るめの挨拶を心がけるようになっただけで周り空気が明るくなった様に感じる。この程度で生きやすくなった。