考察と主観

頭に浮かぶあれやこれやをなんとなしに書き付ける

学校で学ぶこと

 私たち夫婦は変わり者だ。何がどう変わっているか紹介すると個人を特定されそうで割愛したいが…例えば、主人が蛇を捕まえたとする。研究して結果をどこかに発表するような生業ではないが観察したいので飼い始める。私は数日様子をみて毒も牙もない種で、噛まれた主人の手に大きなダメージが無いとみて取ると「蛇に噛まれるを経験しようかな」とちょっかいを出し始める。と言った具合だ。好奇心旺盛で型にはまらない考えが他の人がやらない行動に出る原因の一つにありそうだ。

 子供の頃は人がどうとか考える前に、自分が気になった事をやるのにタイミングを見計らうことを知らなかったり、皆がやっている事でも興味が無ければ加わらなかったりした。これが異端で、力を併せなければ生き残れなかった太古の記憶からすると足並みを乱すことで力を削いでしまう危険分子と本能で判断されてしまう。迫害、いじめ、モラハラの原因と分析している。

 実際、私も主人も学校でいらぬちょっかいを出される事が有った。

主人はいじめを隠していたが我慢の限界が来たところで大騒動になるような反撃をし、事情聴取でいきさつを話したところ先方に詫びを入れさせるに至ったそうだ。しっかりと判断してくれる教師で良かったと同時に、すごい説明力だと思う。

私はシャープペンシルを折られた事が有った。教室に転がっていたシャープペンシルは鋭角に曲がっていて、事故ではないとすぐにわかるのだが、たまたま目に付いたシャープペンシルが私のだったのか、私がターゲットだったのかわからない。なぜならばそのシャープペンシルから感じ取った悪意を憂い授業が始まるのも構わずシャープペンシルを眺め、涙がこぼれたところで授業が中断された。その時は犯人探しにならなかったが、私が隠さない質であることが判明したので(悪意が私に向けられていたとして)私をターゲットにした輩はノーリスクでこっそり反応を楽しみたかったタイプらしくそれっきり。本当のところはわからないままだし、私もいじめられた自覚はないままだ。今でも、私が回収する紙の一枚がくしゃくしゃに丸められていたことがある。エアコンの風に飛ばされて落ちた先で邪魔だと思った人物が丸めたあと捨ててはいけない紙だと気づき上げたところがたまたま正しかったため嫌がらせを疑う状況になったのかもしれないとも思う。とりあえず、記入に不備が有ったので(丸めた犯人ではないと推測できる)記入者に訂正してもらった。記入者も自分ではないと主張し、私も同意した上で声も落さず軽やかに「ちょっと切ないですよね~」と付け加えた。やっぱり隠す気はない。こんな感じでいじめにあっている自覚が芽生える前に露見させてしまっているのでいじめに怯える事はないが、これも変わり者故なのだろうか。

 

 主人はこんな私達の間に設けた子が学校でいじめにあうことを懸念していた。

先ほどの本能の話の他にも団体競技の部活動をしていた私は力を合わせることの威力を痛感している。沢山の個性が集まる社会の縮図の様な学校では勉強だけでなく、力を合わせるべきところで我を抑えて力を合わせること、集団の中でも個を発揮して貢献できること、息を抜いても大丈夫なタイミングと本音で話せる人を見極める目といった自分と他者との関わり方も学んでほしいと思った。