考察と主観

頭に浮かぶあれやこれやをなんとなしに書き付ける

嘘が嫌い

 人間関係を円滑にする処世術として存在価値が有る事は理解しているつもり。

  それでも私は偽ることも偽られることも嫌い。

 

 小学生の頃、宿題をしているときに父が帰宅した。私が起きている内に帰ってくる事自体が珍しい位なので教科書とノートを広げている場面を見るのは稀だった。横目で私が居ることを確認して自分の定位置に行こうと通り過ぎかけた父がはっとして戻ってきて満面の笑みで私の頭を撫でながら「勉強して偉いな」とか何とか褒めた。私には父がはっとした瞬間の「今、褒めておけば勉強する子になる」が透けて見えていて、父が思うようにコントロールしたい本音を受け取り、犬の様な褒め方をされたと感じ嫌悪感を抱いた。本当の父は悪気が無い分思ったことをどんどん口にしてしまうので嘘をつくには向いておらず子供の私にも見抜かれてしまったのだろう。そんな経験から、私にとって嘘とは「すぐにばれる物であり、ばれてしまうと信頼を失うもの」だ。因みに、この嘘により私は父の居るところで勉強らしきものをしなくなり、父は娘が思い通りにならないので子育てを放り出した。

 

  そして嘘をつく際の人を偽る罪悪感から後悔し、ばれて信頼を失う事を恐れながら何事もなく過ごす(ここでも嘘が続いている)とても無駄にエネルギーを使う代物だ。嘘をつかない方針を立てたのでメンタルの持久力はますます鍛えられない。困ったことに、社交辞令すら苦手だ。そうなると、子供に「頑張ったね」と言えるかすら怪しい事に気が付いてしまった。いや、子供見抜くと思ってるけど。普段接していない子の発表会的な物を見に行ってもちゃんと「頑張ったね」的なことに心が籠められるかが、頑張ってる事が分かりやすいかどうかの子供次第になってしまう…こんな風に困る日が来るとは思わなかった。